本文15年2月17日更新分
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記録は、記憶とは違う。
言語や記号によって記述され、誰が見てもそうであるという客観性を勝ちえた過去と、脳や身体に刻まれた、その個体にしか分からない思い出には、はっきりとした違いがある。
思い出は、ともすれば過剰に美化され、あるいは忘却の彼方に消えうる危うさを持っている。
ゆえに記録としての過去こそが、知識となりうる。だが、記号として保存される記録は、意味を正しく見出す主体がなければ、無意味なものとなるだろう。
キミが小さな頃、羊を一から百まで数えたのを思い出してほしい。
羊が一匹、羊が二匹……。頭の中で羊が柵を飛び越えて、カウントされていく。
でも、その羊はどんな姿だろうか。漫画的な表現がなされている目か。いつか娯楽番組でみた記憶を頼りに再現した、白い肌に赤い縁に浮かんだ黒々とした目だろうか。
だが、記録には、ただこのように記述される。
「キミは羊を百まで数え、静かに寝息を立てて眠った」
キミが羊と呼ぶものが一体どのような姿だったか、緊張したか、汗を掻いたか、その感覚は一瞬一瞬で変化し続け、それが言語である以上は正確に記述しようがないからだ。さらには、キミ自身ですら想像上の羊の詳細な描写は、はっきりと注意を向けたとしても困難だろう。そう、あらゆる言葉を尽くしても、人の意識というものを完全に記述することは限りなく不可能に近い。
繰り返そう。
記録は、記憶とは違う。だが、その二つを完全に分けて記述する方法を我々は持たない。過ぎ去ったものに対して、史料として載せることはできても、真実をありのまま想起することはできない。
だから、全ての物語は虚構のものだとするのは、少し暴論だろうか。
事実を元にした小説であれ、新聞やニュース番組の記事ですら、誰かの主観を通さずには、物語というものは成立しない。
今からある少女についての話をしよう。
遠い、遠い未来の話だ。
できるだけ客観的に書くように心掛けるが、物語である以上、どんなに心掛けても私の主観を排することはできない。
その点、ご容赦いただこう。
街は、灰色だった。
コンクリートの灰色が、街のほとんどを占めていたというのもあるが、彼女にとって世界があまりに無味乾燥だった。
記録を集積し、断片へ付箋をし続ける。その試行を彼女が生まれてからずっと休まず続けてきた。
彼女にとって世界は、観察対象でしかない。
興味を持つ以前の問題として、そうある様に彼女は作られたのだから、自分の意志がどうこうというものではない。
当然、苦痛すら感じない。
彼女は、思春期によくある退屈や浮足立った不安に似た感傷に浸る少女ではない。
強引な生物学上の分類を許すなら、人間ですらない。
市民の視界や思考を読みとり、データベースに保存するシステム。
彼らの思考や情動に合わせた適切な情報を引き出す為の集合知。
それを統括するための一種の人工知能。
だから、彼女という呼称で呼ぶのは、それこそ大昔のこの土地にあった万物に意志が宿るという風俗の名残でしかない。適切に呼ぶなら、「あれ」とか「それ」というように、管理者たちの使う呼称を用いるべきだ。
「キミ、だぁれ?」
「ワタシは○○です」
少女の声に反応して、彼女は質疑応答プログラムをくみ上げ、管理者によって設定された自身の機能を端的に言い表せる名前を答えた。
「長いし、ヘンな名前だ。
もっと可愛い名前が良いよ。うーん、なにがいいかな」
機械知性に頼りきった今の文明においても、モノに対する愛着が消えたわけではない。
この街の法理も、市民が人間性を失わぬようにと、ファミリーナンバー以外の前世紀的な呼称で互いを呼び合うことを推奨している。
こういったユーザーが、別に珍しくも無いと、彼女が判断したのが良い証拠である。
用意したアルゴリズムにしたがって、彼女は、その子供がつけてくれた愛称を記録した。
「ではよろしくお願いします。」
「○○は、何が好きで、何が嫌いなの?」
「ワタシは、嗜好というものを理解してはいますが、その質問には意義が見当たりません」
「好き嫌いしないって、いい子なんだね。私はね。紅茶好き。あーるぐれいっていうの。ドーナツと食べるとおいしいんだ。最近はのめないけれど」
「第八食糧生産工場の本年度の計画を表示しましょうか。
前年度よりの全体の基本綱領が見直されたことにより、茶葉の生産の2割を小麦に当てることに……」
「そんな難しいこと言われても分かんないよ」
「提言として、これからは一日一杯の珈琲を飲むことを勧めます」
彼女は、市民の衣食住を彼らの嗜好に合わせて振り分けねばならない。例えば、それは彼らが人口タンパクの香味油漬けを目にした際の自律神経系の高ぶりや、血液1ml当たりの成分変化の情報を随時更新し、彼らにあった食材を加工するように各部門に伝えるのも彼女の役目である。
「やだなぁ、珈琲は苦くて嫌いだ」
「個人の嗜好は景気に合わせた方が賢明ですよ」
「また、難しいこといって」
「好き嫌いはいけませんよ。いい子にしなさい」
「何だか母さんみたいなこというね。キミだって、私とそんなにかわんないのに」
そして、少女は初めて“見た”。
彼女は生身の身体を持つことを許されてはいないはずだった。注意を常に街全体に広げなければならない知性であるなら、そのようなものは枷でしかない。
であるなら、今ワタシがみている、この画像はどこから入力されたものだ。
色を持ち始めたのは、少女のとぼけた顔と黒い髪。
それを今、この場所でみているというのか。
そもそも、というなら。
そもそも、このワタシに話しかけてくるこの知性は何者なのだ。
声の質から推察するに、幼い少女ではあることは間違いない。
市民として、遺伝子バンクに記録されているものと一致している。
そこに添付されていた経歴も、ごくごくありふれたものだった。
だが、そういった身分とか経歴の話をしているのではない。
そんな未成熟な知性が、どうやって管理者の承認も得ずにワタシに“直接”話しかけている?
この計算領域には、ワタシ以外の知性は存在しないはずなのだ。
自我というものがなんなのか。その問いについて答えることは、科学によってその再現性が約束されたこの時代ですら困難である。
しかし、彼女はどうにもこの少女を自分の領域から締めだす気にはならなかった。
まず、自分の内に生まれて初めて湧いた疑問を問わねばならないと。
だが、その感知こそが、我々が自我と呼ぶものに他ならないのは疑いようもない事実である。
彼女はようやく目覚めようとしていた。