日記 338

 久々に書くから、書き出しが職場で使っているメール文の挨拶になってきちまいそうだ。 結婚してしばらくたったが、なかなかに楽しい。しばらく書く必要もなくなってしまったから、書かない時期が続く。多分これからもこういう感じで続いていくのだろう。  書く必要がないというのは、私にとってはとても幸せなことだ。満たされない何かがあるから書くというのがほとんどだったが、今はそうではないということだ。中学の時から満たされないから近所のスーパーで買ってきた原稿用紙に、文章にならない独り言を書き綴っては捨てるということを繰り返していた。しかも、内容もほとんど今と変わってはいない。  自分の中にある感情の整理というか、ラベル付けというか。訳のわからないエネルギーが自分の中にあって、それが不気味で仕方なかった。それをなにか、手に取ってわかるような形にしておきたかったのだと思う。だから、モヤモヤしているとかそういう気分の時はこうして、ノートを開いて文章を書くのである。  高校の時に好きだった子が、小説が好きだったので小説を書けるようになったらいいなと思って書こうとしたが、話を組み立てるセンスがない、ちなみにいえば簡潔に文章を書く能力もない。始まりはそんなもので、そんな凡庸さだから、物書きで食っていける未来ははじめからなかったかもしれないが、好きではない仕事でも生計を立てられて、ご飯を食べた後にこうして、好きに文章を書けているのだから、自分にしては上出来な人生なのだと思う。しかも、夫婦で互いに好きなことをしながらこたつを囲んで時間を共有できているのだから、と思うと今でもうれしく泣きそうになるくらいだ。  次の週末にどこに行くかとか、ご飯何作ろうとか。こういう何気ない会話があるのもありがたいことだと思うのである。こういうことを書いていると、ものすごく自分が老け込んだみたいで、前のめりで常にイライラしていた学生時代からすれば、蹴っ飛ばされそうな気もするが、なんだか柔らかい気持ちでいっぱいになるからいい道を選べたのかなと思ってしまう自分がいる。  というわけで、自分の書くエッセイから毒が抜けていくのを日々ひしひしと感じ取っている訳だが、それが幸せなことだというのは、重々わかっているのだが、それでも求めてしまうのだ。寄り添うようで、燃やし尽くすぐらい激しい怒りがなくなったのだ・・・・・・。これは由々しき事態だ。  少しはかけると自負のあるエッセイから毒が抜けてしまったら、一体自分はものを書くとき何を書けばいいんだ? この辺は本気で考えていかないと、仕事が立ちゆかなくなったとき、文章で食っていけばいいやと現実逃避できる材料もなくなってしまうぞ。しばらくは、少し思い悩んでいこうと思う。  今日はこの辺で。