日記 172

8月26日(月)

 鯨の肉を食った。刺身美味い。
 仕事疲れた。今日はずっと頭が痛かった。
 非常に疲れた。本もまるで読めない。
 同じことの繰り返しで、書く意欲がわかない。だから働くのは嫌いなのだ。
 こういうときは、適当にしゃれこうべと話すに限る。壁と話すのである。

 意欲がないのになぜ書こうとするのか。上手くなりたい。上手くなってどうするのか。理由はあるが、合理的ではない。コミュニケーションの齟齬からの後悔について未だに損切り出来ていないからであり、上手くなってどうするのかについては、何かを形に出来るまで続けると言うことになる。何のために、と問われれば、それは、もう意義のなくなったことのためであり、しかしながら、多分一言で言えば、けじめなのである。だからこれは趣味か、といわれればそう答えるが、それは的を射たものではないのである。義務であり、無為の意義である。
 意味というのもおかしなものである。意味を見いだすのは、いつだって主観であり、それが共通の認識になって間主観となる。客観はいわば机上に存在するものであるが、よりドライに突き詰めた見方をしていけば、きっとそれに近い見方は出来るようになるだろう。であるが、見いだしたものは別に共通のものとして了解される必要は必ずしもないのである。
 よって意味不明という言葉は、語義として正しい。確固たる主観を持っている人間が一見して不可解な言動、行動に出たとき、問うたとしても、それが了解できうる答えであるとは限らないからだ。
 しかし、ものに対し、意味不明と言うこともある。意味不明。意味が必ず物事に潜んでいるはずだという人間様の傲慢さが透けているようでかなり好きな表現である。物事自体に意味などない。それを見いだすのは人間、あるいは意識である。意識があることによって意味を導出しているに過ぎないのである。
 世の中にもっと意味不明が溢れればいいと思う。理解不能で非合理な愚者を救うにはどうすればいいかについて考えたいだけなのだろう。たぶん、これこそが自分の興味である。これを研究することが、私にとっての書く動機がないなりの書く動機である。詰まるところ、これが出来なければ、ずっと同じ光景を、高校の卒業単位が取れないまま、いつ来るの?と問われ続けるのである。もっと言えば、見続けていたいのかもしれない。そして今日もその夢を見た。
 全く、一昨日から一日中寝続けているからである。おかげで本も読めはしなかったし、ゲームも出来なかった。飯も酒もたらふく食ったが、身体がだるい。
 まだ2年前くらいは、企画をあれこれ考えては消してということも出来た。同じシーンを頭の中であれこれ考えて、どう動かせば面白いかについて仕事をほっぽり出して考えることが出来た。けれども今はそれすら出来ない。退化である。確かに生きるのに必要のない行為であるから、普通に生きていれば、必要なくなるので、そりゃなくなる。考える余裕がないとか、そういう訳ではない。必要性がなくなったら考えなくなる。金が出来れば考えられると思ったが、そんなわけではない。寿命削って、意味の分からない浪費をして、生きているだけである。
 ルソーか、なんかが言ったそうだが、生きるとは行動することだとか。そうだとしたら、世の中にどれだけ生きている人間がいるのだろうか。これだからインテリぶった左翼は嫌いなのである。享楽だ何だと言いながら、人生自体が暇つぶしだとニヒリズムめいた視点でみる安易さにもイライラするし、かといって同じものをみて同じように笑うのも不気味さを感じて良しと出来ない人間は、一体どう行動すれば生きることになるのだろうか。なぜこんな簡単な問いにみんな答えることが出来ないのであろう。みんな生きているはずなのに。
 全く問題だらけである。何一つ答えることが出来ないくせに賢しらなふりして死んでる愚鈍が多すぎる。問うことすらしない。無知蒙昧、白痴、それこそが神の、普遍の本性である。

 眠いので寝る。何も企画浮かばねぇ。やっべぇ。