モラトリアムパレェド 4

27日の夜と翌日の午前に書き溜めたもの

4 「1‐5 ポテトカウチとインスタントメサイア その1」

 日本の大学生の勤勉さは本当に素晴らしいと思う。
 とある筋によれば、受験生は平均して高校最後の1年間に勉強に毎日五時間ほど費やしているらしい。私もそうだった。だいたいそのくらいか、もっとやっていたと思う。同じようなことを書いている参考書を有難がって何冊も繰り返し暗記したり、将来こんなことを使って仕事するわけないだろうと半信半疑になるような数理科学の法則を諳んじられるようにした。ここまで頑張って教養を身につけたのだから、大学でこそもっと自分の興味のあることを深められると思っていたし、やっと自由に自分の力を伸ばせるのだとワクワクしていた。少なくとも入学当初は。
 季節も五月の連休明け、桜の花びら舞い散る中、サークルの新入生歓迎を謡いながら酒と博打と淫行に誘う喧騒がキャンパスから鳴りを潜め始めたころ、私の頭の中にある疑問が鎌首をもたげていたのである。
「そも我は何者ぞ」
 私はそのころ、18歳で、片田舎から出てきた野暮ったい瓶底眼鏡の女であった。
 あくまで客観的に見て、だ。
 私はあのとき自分のことを世界一賢いと思っていたし、(わからないことはあるにせよ)、この世で正気を保っているのは自分だけだと思っていた。周りの人間はともかく必死になって自由からくる要請から目をそらそうとしているように見えて、はっきり言って苛立っていた。
 今にして思えば、高校生活にしてもあまり目立ったことがなかった人間が、大学に行けば何らかの人生の岐路が見つかるのではないかなどという浅はかな楽観が裏切られてしまったことが悔しがっていたという余りにもありふれた、凡人めいた驕りだったのだ。
 そして、学校から消えた(あまり来なくなったが正しい)彼らこそがひょっとしたら、自由に自分の力を伸ばしているのではないか。学校生活などにかまけず自分のやりたいことに邁進しているのではないか。そういう焦りがあったのだと思う。
 専門的を謡いながら時代遅れの理論をさも面白くなさそうに語る講師や、安かろう悪かろうを地で行くような学食の不味さも、そして日に日にだだっ広くなっていく構内の静けさが胸をチクチクと針で刺していたのである。
 
 「1-5 その2に続く」