日記 102

10月6日(金)

 今日は忙しかった。明日はもっと忙しいらしい。

 日常生活の些末な出来事に一々詳細に語りをつけるのが億劫になってきた。
 日記も随筆の形態の一つなのだから、(そう高校で習った記憶がある、更級日記の話か?)、細部にこだわることこそ肝だろうが、どうでもいい。実の伴わない考えたことを延々と書き連ねるほうがよほど楽しい。あの人はこうだとか、部材の質が合わないだとか、うだうだ言ったってしょうもない。着眼点と展開力の土俵なんぞで戦えるわけがないのだ。

 彼岸花が良く咲く季節だ。夜勤からかえって、コンビニに朝飯を買いに行くと田畑のあぜ道に赤い群れが点々と見える。私の住む町がそういうものらしいのだが、ともかく彼岸花があちらこちらに生えている。触るとかぶれるらしいので、近寄りたくはない。あの花の構造は、格好良いと思うのだが、あの花が群生しているせいで、この時期になると草原で遊べなくなくなった思い出がある。だからあまり良い感情を持ってはいない。近づいてみれば緑色のアブラムシが茎にたかって、蠢いており、それを狙っててんとう虫がとまっていたりする。虫よけになるとか書いていたが、あれはデマだ。遠目でみれば綺麗だが、近づけばあんなおどろおどろしい花は中々存在しない。家で観賞用に育てている花は、名も知らぬ農家の人々の品種改良を経て近づいても綺麗なものだが、やはり彼岸花はただの雑草である。禄でもないものだ。

 樹木希林氏の追悼番組をこの間みていた。別に好きで見ていたわけではなく付いていたからたまたまそれを見ていただけである。
 その番組の中で、表裏のない人だったと言っていた。なるほど、いつだって目の前の人に真摯に向き合う良い人だったのだろう。柔軟な考えをもって本音で話せる人だったのだろう。凄い人もいたものだと思ったが、それはそれとして、『こいつは本音で話をしている、綺麗事なんかで自分を飾り立てない奴だ』という印象の植えつけ方は、非常に為になる語法である。
 私も悪いこともいいこともしたよとか、そういう、寄り添うようで綺麗事で突き放さないような気づかいの仕方は、もはや技術である。無粋で人情味のないことを書いている自覚はあるのだが、真意を推し量り気持ちの真贋を見極めることは非常に難しい以上、そういった器量は大事な気がする。
中学生くらいのころバンプを聴いていた時も、ええ歌詞やんけ!と共感したものだが、今となってはまるで他人の人生のあらすじを4分から8分で俯瞰した情報の集まりでしかないと渇いた思考に陥ってしまう。つまるところ何の感慨も湧かない。ノーヒットノーランとか、結構好きだったんだけど、高校球児でもないし、ましてバットなんて数えるくらいしか握ったこともない。なのに確かに中学の私は、あの歌詞に共感して、聞き入っていた。
 似たような現象で、ハイロウズの曲で「青春」というやつがあるのだが、不良の先輩に絡まれて返り討ちにするが結局、帰り道の時にリンチにあいボコボコにされ、保健室だかどっかで傷をいやしているときに気になる子に何の感慨もなく優しい言葉をかけられて勝手に負けた気になったという曲で、(少なくとも私はそう解釈している)、そんな経験もないのにすごく分かったような気がするのである。またこの「青春」というタイトルも憎い。いいパッケージだと思う。
 で、現実の私はというと家に帰ってはダイヤルアップ接続の制限時間に戦々恐々としながら、エロゲの体験版をダウンロードしてはCD‐RWに焼いて、プレイしていただけの青春時代である。仲間と共に一つの目標に向かって熱狂もしなければ、そのこと自体がプレッシャーとなって硝子のようにひび割れそうな心を必死に押さえつけたりもしない。不良に絡まれたこともあるにはあったが、適当にあしらって下水道に自転車突っ込ませたくらいで、なにも大した感慨もない。
 フィクションは素晴らしいと声高に言う一方で、現実のつまらなさから目を背けているだけなのかもしれない。まあ、面白くなければ売れるフィクションにはならないだろうから、そりゃどこにでもいる平凡な男子中学生の日常よりは面白くなければおかしい話である。
 まあ、そう。学生に物を売る時はできるだけ親身になって話を書くべきなんだろうなと、今更になっておもうのであった。
 今日はこの辺で。