日記 100

9月30日(日)

 台風のおかげで終日休日だった。
 正確には自宅待機だが、プラネット・ウィズの一挙放送も観ることが出来たし、ラノベの消化も進む。ついでに言えば、シンフォギアライブのDVDつけながら今これを書いている。
 今、私に必要なのは健康でいられる時間なのだ。仕事したら指動かすたびに痛みが走るようになるし、体調を整えるために無理にでも寝ようと時間を無駄にしてしまう。
 と言っても、事務仕事してた頃よりも、本を真面目に読むようになったしこうして机の前に座る時間も増えている。ここのバランスが本当に謎だ。やる気になる、いや、ならなくとも一日最低3時間ほど本読んだり文章書いたりする時間を作る体調の整え方を自分なりに見つけていくしかなさそうだ。
 
 優先順位が、飯と酒>睡眠>実況動画>>>(超えられない壁)>アニメ>ゲーム>本という順番になってるのが、一番悪い。手軽だし、苦痛からできるだけ逃れたくなるのが人間だからね、これはしょうがない。
 
 それにしても、ライブの水樹奈々氏の呼びかけ巻き舌かかっててすごく独特だ。

 仕事中、いろいろ考えるんだけど酒飲んだ時にくだ巻くための哲学まがいしか出てこないのがちょっと辛い。そこで、書きたいものを適当に箇条書きにしておこう。

・ヒーロー論
 高度な正義は相対的なものになるが、交通事故にあいそうな人間を助けるだとかそういう単純な行動は、常に正義に分類されうるか。各々の価値観が異なるプレイヤーが複数存在するとき、官軍を称するにたる名分を得るのは誰なのか。
 ありていに言えば、英雄の条件って何だろうか、という疑問。日アサものをよく見ているせいか、いろんな作品で語られる一応の答えは見てきたはずなんだけど、何とか自分なりに言葉にしたい欲がある。いつか書けるかな。知らんけど。

存在論
 ある主体が存在を肯定または否定すること自体にあまり意味はない。
 存在は存在しているから認識されているのであって、そこに肯定も否定も必要ない。
 ある存在を否定することは、認識=存在を否定することであり、それ自体に矛盾がある。
 ある存在を肯定することについてはどうか。これが結構難しい。
 要するに、異なる価値観の人間がいるときに、そういう人がいてもいいと思うんです、みたいな傲慢な考え方が気に入らないのである。いるならば、お前の許容も否定もそこに介在しないではないか。すなわち生理的な嫌悪感と認識をきっちり分けなければならないということだ。
 誤認でない限りは、認識した瞬間に存在することになる。これを証明するのは非常に難しいことのように思える。当然の公理のようにも思えるが、証明は難しそうだ。

 100回目がこんなんでいいのか。まあ、いっか。