日記 94

8月18日、19日

 仕事以外なにもやっていない。
 記憶があるのは酒とつまみを買って飲んだことくらいだ。
 仕事帰りの車の中でラジオ代わりにVtuberの生配信をつけていたせいで、
 スマホのデータ通信に制限がかかった。
 旅行先でスマホ使ってなかったのに、中旬ごろにかかるとは全くままならない話である。

 話すこともないし、たまには哲学っぽい話でもしたい。
 が、最近読んでいるドゥルーズの解説本も意味が半分も分かっていない。どうしたものか。
 
 水槽の中の脳の話でもしようか。
 あるいは哲学的ゾンビ
 責任論でもいいかな。

 どちらにせよ、よくあるポピュラーな話題しか提供できないし、
 結局のところ自分に興味のある話題しか話せないのである。

 世界のはてのランダムウォーカーの4話で、人格のデータベースへのアップロードについて考察されていた。
 ヨキ曰く、生とは動的なものである。乱数、乱歩。ランダムウォーカー。人格がアップロードされた場合、彼、彼女がアルゴリズムに堕するのである。記述された時点でそれは静的なものとなり、すなわち死人と同義なのである。
 で、電脳世界に行ったヨキ達はアップロードされた人格が亡者と化して生きた人間を取り込み続けているのを目撃し、電脳世界のあの世から逃れるという結末を迎えるわけである。

 大学時代からよく考えていたのは、選好を表す数式に個人が置き換えられるならば、すなわち、個人の報酬系を数式なりで表すことが出来るなら、何を感じれば意欲が湧くのかをその情報を知った人間(当人を含む)が管理出来るようになるのではないかということだ。
 要するに、楽しく生きるのに必要な面倒事をなるべく苦を感じずに過ごせるような過ごし方を、あるいは目標に向かって何の疑念も持たずに突き進めるような提示をできるようになるのではないかと。そうすれば、社会はもっと良くなるはずだと思ったのである。
 しかし、これには致命的な欠陥があるのだ。統計や記述は帰納的なものである。彼、彼女のアルゴリズムコピーは、彼、彼女と比べて遜色ないものとしても、誰かによって観測された過去にしかならないのだ。
 自動生成されたうわ言と生身の彼、彼女の妄言の差はどこにあるかは分からないんだけれど。肉体があれば、時間を生み出す、未来へ進む乱数を得ているというのも暴論である気もしなくはない。

 酒に酔っているため、もっとわかりやすく書けるようになったら、明日、気が向けばこれを書くとしよう。人格のコピーと生身の人間、主観時間を持つか否かの問題を書こうと思う。
 まあ、今これを書いている酔っ払いがそんな大層なものを持っているのかというのも怪しいものである。哲学者の胡散臭さは、偏執的な悩みをもつ人間をさも選ばれた者のように高尚に扱うことにあるのだ。精神疾患と言い換えてしまえば、明るく楽しく生きられるというのに、ミルも愚かなことを言ったものである。

 今日はこの辺で。