日記 12

4月30日(月)

世間様はGWだがそんなもん関係ないぜ。

仕事は暇だった。
応援もいかなくて済んだのはいいけど、連休前に大丈夫なのか?
興味ないことに頭使わずに済むから、今の仕事は続けたいのだが。

昼休みに「東洋哲学から学ぶ人工知能」を読みたかったが、
ツイッターの魔力に負けた。
飯も食わず、ポカリのみでスマホをいじる。
高校の頃の私が見たら、足の骨を折って椅子に縛りつけてPCの前で物を書かせているところだ。
SNS中毒というやつなのだろうか。
共通の興味を持つ人間のつぶやきをみて浸るのは落ち着くが、
世界が狭まっている気がしてならない。
とはいえ、自分の興味のあることですら知らないことばかりなのだ。
より多くのことを、考え方を覗いてみるのも悪くないのかもしれない。
過学習を起こさないように気を付けつつ。

そんなわけで今日は荘子の話でも。
前述の東洋哲学から学ぶ~の第一夜の部分に出てきた。
有名な胡蝶の夢の話を書いた春秋戦国時代の中国の思想家だ。
もしかしたら、そのあとの時代だったかもしれんが、まあ細かいことは気にしてはいけない。
要約するとこういうことが書かれていた。

人間は概念を生み出す。
だが、同時に正しくものを捉えることができない。
そのため賢しらな理屈に沿って行動するのではなく、
万物そのものである道に従って行動すべき。

なんじゃそら、じゃあ、勉強する意味ねぇじゃんか
と思ったが、本書の流れを振り返ってみると
アリストテレスから始まった西洋哲学をもとに発展した人口知能では、
人間らしさを実装するのに課題が残ってしまう。
ゲームAIやロボットなどの人工知能を人間らしくするため欲望を実装するための
考え方を東洋哲学からヒントを得よう。
という流れでの紹介である。
要するに、西洋哲学の解体が目的なのだ。
成功しているかどうかはよく読み込んでいないからわからないが、
ワクワクする試みであることは間違いない。

開けば、阿頼耶識とかいろいろ怪しげなワードがずらり。
もとは仏教思想だけど、こういうのを見るたびに心が躍ってしまう。

で、この阿頼耶識、解釈前の事物それ自体のことを指しているのだけど、
日本でいうところの、「もののあはれ」とかその系統のアレだ。
こいつからボトムアップで知能というのは本来発生する。というのが筆者の主張。
私も、最近読んだドゥアンヌの本にも似たようなことが書かれてあったから、
実験での結果ともある程度、整合が取れているのかな?
と、とりあえずは納得。
一方で、人口知能は設定を作り、プログラムを打ち込んでそれをもとに環境に対して
影響を与えさせる。トップダウン型で設計が行われる。
設定どおりにキャラを動かす的なところだろうか。

設定に基づいて思考するキャラクターは、世界を解釈し得るのか。
という問題はなかなかに面白い。
キャラと人間の違いは、境界はどこにあるのか。
なかなかに興味深いものである。

まとまりがないため、今度の休暇にでもまとめて書評してみようかと思う。
どうせ、的を射ない文章になるのは目に見えているが
なにせ興味があるのだ。
ここでくだを巻くことぐらいは、許してほしい。
ああ、そうだ。この間書いたアレについても、連休前には書かねばならない。
友人に話して意見を伺いたい。
へぇ、とか、ほぉとか適当に相槌売ってくれるだけで、
武陵の慰めというものだから。

では、今日はこの辺で。