第二話「愉快な仲間と憂鬱な日々」



 どんな気持ちで居ようが学校に行かなくてはならないのは高校生のつらいところなのだろう。源二は昨夜の知らせを受けてからというもの不安な気持ちに駆られていた。中学の頃海外に留学して以来、四年間もの間連絡もロクによこしもせずにいた兄が、突然帰郷の旨を伝えてきたからだ。厳密に言えば、実家から電話をしても一向に出ない兄に困った両親が送った手紙の元気にしているとだけ書いた返事が返ってきたことが一回あったけれどもそれからは、ほとんど音信不通に近い状態であったのだ。だからこそ、昨夜の母は呆れたような言葉を吐きながらも嬉しそうに台所の片づけをしていたし、後から帰ってきた父も一度怒ってやらねば等と言いながらもいつもより煙草の量が少なかった。

 歳は離れているものの血の繋がった兄ではあるのだが、源二は彼のことが苦手であった。双子でもないのに彼ら兄弟の容姿はよく似ている。今朝、顔を洗いにいった源二は、洗面台に映った自分の姿を見た。髪の水分がないのかあちこちに飛び跳ねた髪、長い睫毛、だるそうに見える瞼は決して寝起きだからというわけではない。今月十七歳になる源二の顔、背格好は四年前に駅で別れを告げて以来声も聞いていない兄のそれと瓜二つだ。

やがて、鏡を見るのが嫌になったのか、源二は歯磨きブラシを口にくわえながら居間に座ってテレビを見ていた。テレビには朝のワイドショー番組が映ってある。相変わらず源二にとっては興味のない芸能情報ばかりで、音声が右から左へと耳を通り抜けていく。

「また口に歯ブラシを加えたままにして」

と母が朝食の塩おにぎりを乗せた皿を持ってきた。遠藤家は夕飯を台所に近い食堂で食べるのだが、朝の忙しい時間にテレビを見られないのはつらいだろうと、父と母が新婚の時に母方の祖母が朝は居間で食事をとるように提案したのだという。

「最近は、やってなかったさ」

 源二は皮肉をこめて言ったつもりであったが、母はその意味を汲み取れずに癪に障ってしまったらしい。机の上に皿をタンッと乱暴に置いた音が響いた。

「分かっているなら、やめなさいな。もうアンタ高三でしょう。そんなんじゃ、いつまで経ったって、まともな大人なんかにゃなれませんよ。来年この家出るんでしょう」

「まあ、そうしたいね」

 ぼんやりとした答えを返しながら、このことと来年のことがどんなふうに関係しているのだろうと源二は考えた。確かに母の言うようにだらしない態度で生活を送っている大人はふさわしくないと思うし、ダメなやつだと周りの人からも思われるかもしれない。しかし、目の前で新聞を広げながらテレビを見、しかも、いただきますも言わずに片手でおにぎりを口に運んでいる父はこの一家の稼ぎ頭だ。こんな風に高校生にもなった息子が叱りつけられている横でだらしない格好を子供に見せている男のどこに惚れたのだろうと源二はため息をついた。

「お父さん、はい、お味噌汁です。って、あんたもう学校じゃないの。もう五十分よ。全く今日も寝坊でしょう」

「いつも、朝餉が出てくる時間に合わせているんですけどね」

「“あんた”が起きてくるのがいつも遅いから、こっちが合わせてるんじゃないの。お父さんもなんか言ってやって下さいな」

 母が期待のこもった眼で脇に新聞を畳んでおいている父を見た。

「ん。朝起きは3文の得って言うぞ、源二。昔の偉い人の言葉だ」

うんうんと自分の言葉を頭の中に反芻している様子の父に母が合わせる・

「そうよ。アンタのお兄ちゃんはね。学校の三時間前には起きてましたからね。きちんと店の手伝いだってやっていたんですから」

 また始まった! こうしてお兄ちゃんはね、と出来の良い兄と比べられるのが源二は昔から嫌だった。兄が出て行ってからしばらくはなかったのだが、昨夜、兄からの連絡を受けて何を思い出したのか、久々に悪習が再来してしまったのだ。

兄貴は関係ねぇよ、と食べ始めたばかりのおにぎりを皿の上において源二は鞄を提げた。

その後ろ姿に、お、行ってらっしゃい、学校遅れないようにな、と父が言い、また食べかけで出て行って、と母が嘆息した。


「それはまた災難だな」

 学校の昼休みの時間、源二は湊と沙紀に朝の愚痴を漏らしていた。彼らは一年生の時から同じクラスである。昼食を取った後には、午後の授業の予鈴が鳴るまでの間こうして三人でよく談笑していた。湊の隣の席に座った沙紀が驚いたような顔で

「というか、遠藤君、お兄さんいたのね。知らなかった」

と言い、空になったいちご牛乳の紙パックを机にことんと置いた。

「まあ、四年前に家、出て行ったっきり連絡もよこしてなかったからなぁ。正直、家族みんな兄貴が居ない生活に慣れ切っていたところだったから、いきなり昔に戻ったみたいで気分が悪いよ」

 源二は憂鬱そうな苦笑いを浮かべ、ため息をついた。

「お兄さんもオカルト好きなのか? なら、今度ご挨拶にでも」

湊が目をキラキラと期待のこもった眼を輝かせながら、デイバッグの中に入った金色の仮面らしきものをちらつかせる。

「いつ、俺がオカルト好きになったよ? 別にそんな興味もねぇよ! 」

「でもなんだかんだで、オカ研の活動日にはちゃんと顔を出してるじゃない」

 ニッコリと形の良い笑窪を作って沙紀はおかしそうに笑った。

「それは、それは……だなぁ…… 」

 言葉に詰まっているのを見、ニヤニヤとした湊をみて、源二は心の中でしまった、と歯噛みした。商売人の家に生まれたせいなのか湊は他人の感情に聡いところがある。

「僕のオカルト談議がそんなに面白いんだろう。やっぱり興味津々じゃないか! 」

 いや、違うからと突っ込みをいれようとしたが、ここはそういうことにした方が都合が良いなと冷静になって、源二は黙っておくことにした。

「そういえば、朝で思いだしたんだけど、ワイドショー見た? 」

 沙紀は、なんだかしどろもどろになっている源二の顔を気にも留めずに話題を切り替える。

「ワイドショー点けてるのか、沙紀の家は朝のニュースとかみてると思ってた」

 沙紀の家は、江浜市で古くから木材を加工販売している会社を経営している家庭で、一人娘の沙紀に対して将来婿を取らせるために厳しい躾を行っており、沙紀の視るもの聞くものを全て制限しているのだという。高校に入り、胡散臭いオカルト研で湊の話を楽しそうに聞いているのはそういう家への反発があってのことなのかもしれないと源二は思った。だからこそ、沙紀から朝のワイドショーという言葉が出たことを不思議に思ったのだった。

「リュミヌーの散歩から帰ってきたらワイドショーだったのよ。私も珍しいなって思ったんだけど、画面を見たら天神崎が映ってて驚いちゃった」

 リュミヌーというのは沙紀の飼っている犬の名前で、彼女は朝早起きして犬の散歩に行くのだ。もさもさしていて可愛いのだとよく沙紀は顔をほころばせながら愛犬のことをよく話していた。

「まさか、例の白装束の集団の話だったのか? 」

湊は目を輝かせた。普段は品の良いお坊ちゃんといった風なのだけれども、自分の興味の範疇になると子供のようにころころと表情が変わる。

「残念ながら別の話だったわ。市の美術コンクールで入賞した子の話だったんだけど、その子が天神崎の絵を描いていてね。取材を受けている所が流れていたんだけど、後ろに花田先生が映ってたのよ」

それを聞いて湊は一気に冷めたのか、いつもの落ち着いた調子で答える。

「別に驚くことでもなくないか、花田先生が休みの日に天神崎で絵を描いてるのっていつものことじゃないか。あの人、近くに住んでるらしいしね」

「そうだぜ。にしても先生毎回コンクールにゃ応募してるらしいけど、いっつも落選してるからなぁ。今回も落ちてたりしてな」

 源二は茶化しはするものの、同じ題材で子供に先を越されてしまった姿を県中に放送されてしまったあの美術教師に少しは優しい言葉をかけてやろうかと思った。

「まあ、そっとしておいてあげような。教え子に心配されるのもそれはそれで屈辱的だろうから」

 湊がそういうと、それもそうかと妙に納得してしまう源二であった。

 そうこうしているうちに五限目の授業の予鈴のチャイムが鳴った。今日の五限目は、選択科目である。選択科目というのは、書道、音楽、美術の三教科のうちのどれか一つを選んで受講するというもので、授業ごとに生徒は教室を移動しなければならないから予鈴が鳴ればすぐにでも教室を出なければ遅刻になってしまう。源二と湊は、この中の美術を選択している。一方、沙紀は音楽選択でこちらは遅れるとかなり先生がうるさいらしい。

「あぁ! 授業が始まっちゃう、じゃあまたね」

と沙紀はプリントが何枚か入った薄赤色のクリアファイルを持って教室から駆け足で出て行く。勿論、授業に遅刻してはいけないのだろうが、そのために廊下を走ってはいけないという小学生でも知っている校則を破ってしまうこの生徒会副会長を見て、後に残った二人は顔を見合わせて苦笑いをした。


 源二たちが美術室の席に着いた時、やはりと言っていいのか、担当の花田先生はやってきていなかった。いつも通りで安心すると同時に、本当にあんなのが教師で大丈夫なのだろうかと毎度のことながら思う。

 ガラガラと引き戸を開けて花田先生が美術準備室から入ってきたのは始業の時間を十分も過ぎた後であった。

「いやぁ、すまんね。準備に手間取ってしまいましたよ」

教壇の上に登って教科書を置き、黒板を消し始める。使い古された黒板消しはチョークの粉が薄い層になったものがへばりついていて、ズッズッという不快な音が出た。綺麗にしているはずなのに黒板消しの跡が消えかかった飛行機雲のように残った。そして、手を叩いてから教壇に両手をついて、ため息を吐き、少しの間があった後、教科書を開いた。

「教科書四十ページを開いてください。今日は先週言った通り自画像のデッサンです」

 花田先生が鏡を持ってきたかと生徒に呼び掛けたのを聞いて、忘れた生徒たちはぞろぞろと教壇の前に並んでいく。源二もその中の一人で、しかもこの授業で一番の常習犯であった。彼も自分に抜けているところがあるのは重々分かっているし、これで三週連続の忘れ物なのも少しは反省はしているのだが、どうしてもこのゆるい雰囲気の漂う授業に対して気を張っておくということができなかったのだ。

「遠藤、またお前は忘れものか。忘れちゃう子にはお仕置きが必要だね」

と先生は貸し出し用の古い手鏡とは別の、桃色の縁取りに猫の耳の様な飾りのついた手鏡をズボンの尻ポケットの中から出した。源二はそれを見て、げっ、と思わず身じろい出しまった。花田先生は、口元に無精髭を生やしてきちんと食事をとっていないのか頬が扱けていてどこか厭世的な風に見えるのであるが、こういった茶目っ気のあるところがある。しかもオカルト研究会の顧問をやっており他の生徒たちよりも頻繁に会うためか、源二達には特にボケをかましたりすることが多い。

「全く、3週連続で忘れ物というのも大概だと思うが、なにより今学期に入ってお前が忘れた、いや、忘れ物をしなかった週を数えた方が早いだろうな。何回忘れたか覚えているかな?」

 源二は、はてと頭の中で今の光景と同じものを何度体験したかを指折り数えた。が、途中でこの日とあの日は同じ日だったかなとか考えているうちに指を曲げたり伸ばしたりしては首を傾ぐ。花田先生はため息をついた。

「この帳簿によると……だ。お前が忘れ物をしなかったのは、今日を含めた二十二回の授業中、四回だ。つまり、お前が忘れ物をしなかった日は月に一回だけだった。ということになる」

「じゃあ、次は忘れませんね! 」

 源二は、出来るだけ満面の笑みでそう答えた。はきはきとした方が印象は良いかなと思ったからだ。が、これが逆に花田先生の癇に障ったようで

「本当にこの鏡でこの時間絵を描いてみるか? いやあ、それはそれは楽しい思い出になると思うぞ。ん? 」

と若干、口角を歪ませてグイッと手鏡を差し出したのだった。源二はクスクスという嘲笑や背中に突き刺さる好奇の眼差しに耐えながら、いや、ホントに反省してますから、それだけはご勘弁をと素直に謝った。

 こうして一時間ある授業の内、約十五分が消化されたのであるが、ここからが花田先生の不思議なところで画用紙を生徒に配り始めてからの展開が早く、よく始業が遅いにもかかわらず授業のカリキュラムの予定からは、ずれていない。花田先生は実際の有名な画家の書いた自画像のデッサンのコピーを張り出して、デッサンのコツを黒板に箇条書きしていく。

 源二は、まだ何も書かれていない画用紙と睨めっこしながらどこをどう描くか決めかねていた。手鏡に映った自分の顔を画用紙にどう描いていくのか、真剣な顔つきと言えば聞こえはいいが、悩んでいると眉間にしわが寄ってきて、紙をくしゃくしゃに丸めたような表情のようになっていた。

「遠藤、肩の力を抜いてみて。もっと楽にして描いた方が良い」

 源二は、背後からいきなり声をかけられてビクリと反応した。振り向くと、花田先生が片眉を吊り上げて目の前のまっ白な画用紙をまじまじと見ていた。肩に手を置かれて、揉みほぐされる。

「一回ザッっと描いてみれば良いよ。最初から上手に描こうとすればするほど自分の中のイメージが固まってこないから。思い切りよくこう、ザザッとね」

と花田先生はパントマイムみたいに勢いよく絵を描くジェスチャーをする。実際、源二はどのように描けばよいのか分からなかったのもあるのだが、それ以上に手鏡をのぞかなければならないのが苦痛であった。鏡に映った兄の面影を十分に残した自分の顔を見ると鬱屈とした感情が湧いて出てきてしまって思考がさえぎられてしまうのだ。先生、と適当な質問をして気を紛らわせようかとした時には、花田先生はもう他の生徒に呼ばれて行ってしまっていた。仕方がないので、言われたとおりに思い切りよく描いていくことにした。鉛筆で顔の輪郭をなぞっていく、角ばっていたのか、面長だったのか、それとも母のように丸顔だったのか、すぐに煩雑になっていく自分自身の容貌の想像図を縛り上げてやりたい気持ちに駆られた。少し鏡を覗いてみる。どれだけしかめ面をしていても眠たそうになってしまうたれ気味の目がこちらを見ていた。兄とよく似た全てを見透かしたような超然とした瞳。けれども自分は彼とは違って本当に何も見えちゃいないのだ。出来が違いすぎるにもかかわらず、こんなに兄に容姿が似ているのだろうか。またもや腐りきった泥水の水脈を掘り当てそうになった源二は、その思考を振り切るように画用紙に再び目を向けた。


 源二の兄は、四年前に外国に留学をするために家を出た。遠藤家は、父が水道局の職員で母は祖母から継いだ骨董屋を細々と営んでいるどこにでもある平凡な家庭である。そういう家庭で育った兄が高校を卒業後に早々と国費留学をすると決まった時は、親戚中が物見遊山に家にやってきたものだった。爪の垢を煎じて飲ませるという言葉があるが、出来の悪い小学校に入ったばかりであろう子が入ったこともない薄暗い骨董屋の中に神経質そうな彼の母親に引っ張られて、爪の垢を売ってくれないかと来た時にはさすがの源二の母も苦笑いをしていた。その時源二はというと、学校から帰ってきたところで、その女性に

「あなた弟さん? お利口そうねぇ。……あなたのでも良いわ、下さいな」

と卑屈な笑みを浮かべられたものだからなんだかいたたまれない気持ちになったのを覚えている。

そんな風に当時、周りは少し慌ただしくなっていたのであるが、当の源二達家族は兄が今までに購入していた大量の小難しい専門書を下宿先に送り届けた日以外は、実にいつもと同じ日常を送っていた。平日、源二が学校から帰ってくれば、帰宅部であった兄はもう部屋にいて田舎町にいては通販で購入しないと手に入らないような本を読んでいたし、居ない日は街の図書館に行ってインターネットで海外の論文を読み漁っていた。高校生にもなればそこまで勉強するものなのかと小学生の頃はそんな兄の姿にがく然としていた源二であったが、兄や姉のいる学校の友人の話を聞くと家に帰ればアルバイトに行くか、ゆったりと寛いでいるとのことで、やはり兄は少しおかしいと感じたのであった。

勿論、両親も長男が他の子とは違う非凡な才能を持っているのを分かっており、兄が好んだ本を購入するために母は月に一度兄を電車で2時間ほどの大きな街にある大型書店に連れて行ったり、店のインターネットを使わせてやったりしていた。大学で使われている様な専門書を四日もあれば暗記、理解してしまえる程の知能を持った兄にとってはそれでも不十分であった。平凡な田舎の家庭であるところの遠藤家にしてやれることはそれくらいで精一杯であったが、不満を言うこともなく兄は無心で年不相応の勉強を続けていた。当然そのしわ寄せは、弟である源二にいく。源二は周りの子供たちよりお小遣いが少なかったし、誕生日やクリスマスにプレゼントを買ってもらった事はなかった。友達が流行りのテレビゲームや玩具で遊んでいる時も持っていないからという理不尽な理由で仲間外れにされたことがままあって、その度に部屋で分厚くて難解な本をペラペラとさも面白い漫画を読むようにしている兄の姿に、どうして他の友達のようにさせてもらえないのだろうと思ったものだった。母や父に流行り物をねだったこともあったが、

「そんなものにかまけている暇があったら図書館にでも行って本を借りて読んで来い、兄さんはそうしていたよ」

と一蹴されてしまうのだった。

 源二が小学生の頃、友人たちの間でトレーディングカードが流行ったことがあった。幸いにも、その当時にテレビ番組でやっていた販促用のアニメを源二も観ていた事もあり、いつもと違って皆の輪に入り続けることができた。アニメの話をすることも面白かったが、友人にレアリティの低くていらないカードを譲ってもらい、デッキを組んで友達と遊んだ時には、強いカードがあまり入っていないから中々勝てはしなかったとはいえ、共通の話題で盛り上がることがこんなに楽しいのかと感動さえしたものだった。

ある日、いつもカードゲーム仲間で屯していた友達が急な用事で遊べなくなり、比較的近所にあった源二の家で遊ぶことになった。その日、兄は図書館にいってくると昼飯をさっさと済ませていったし、会うこともないだろうと源二は考えた。いつも兄は重々しく本を読んでいるために、人一人居ないだけなのにずいぶんと広々としたもののように感じた。この中に源二の他に四人の友人がぞろぞろと入ってくる。自分のいつも使っている二段ベッドの下部に腰かけて、他の皆にも好きに座っていいよと席を奨めた。そういえば初めて友人を家に上げて賑やかにしているのは初めてのことだなと源二はしみじみとしながらデッキをチェックし、皆とゲームを楽しんだ。

数回戦った後に、ちょっと休憩しようかと一息いれていると自転車の止まる音がした。母の甲高い声が良く聞くものよりも若干、柔らかい感じをうける、これは家族にかける言葉だ。――拙い。

この時間、父は仕事で帰ってくることはないし、母は家に入ってくるときに挨拶をしたし、留守にする時は声をかけてくれるはずだから彼女が出て帰ってきたということではないだろう。ということは、この音の主は兄であるということになる。どうかこの音が聞き間違いであるようにと源二は祈った。様子がおかしいのを気付いたのか友人がどうかしたのかと尋ね、それに源二は何でもないよと答えた。誰かが階段を軋ませながら上がってくる。

――きっと、母が気を利かせてお菓子でも持ってきてくれたのだろう。そうに違いない。

 引き戸が開かれ、現れたのはやはり、兄であった。小脇に本で膨らんだショルダーバッグを提げている。沈黙が流れる。友人たちの視線をいきなり注がれたにも拘らず兄は、ボーっとした眼差しを変えることはなく、自分の勉強机の上に本を取り出して開くと椅子に座って黙々と読み始めた。おい、あれがお前の兄ちゃんかよと、源二の側にいた小生意気そうな友人が耳打ちする。源二がそろそろと頷くと、友人は、マジかよー、なんか怖ぇなぁと同情の言葉をかけてくれる。すると、別のはきはきした子が、お兄さんもこれやってみませんかと声をかけた。源二がカードをやってみたいが、お小遣いじゃとても足りないと嘆いた時に使わないカードを譲ってくれた子である。

「カード? それを使って遊ぶのか」

 銀メッキの栞を挟んで、本を閉じると、兄は漸く少年たちと目を合わせた。意外にも人好きのする優しげな声を出したので友人たちは、どこか安心したように楽しいですよ、とりあえず一戦してみましょうと調子づいて自分たちの輪の中に兄を入れた。さっきの緊張感は何処へやら温かくなる場の雰囲気に反して源二の心中に湧いて出てきていた漠然とした予感が、悪い方向に形を成してきていた。

 基本的なルールを早々に覚えると、兄は源二にデッキを借りて試合を年の離れた子たちとゲームを始める。対戦相手のデッキはきちんとカードをそろえているだけあって、序盤から盤面を整えて一気に攻めてくる。兄も用意できる最善手を打っていくのであるが、やはり決め手にかけてしまう。このゲームは動作をするための自分の手番にエネルギーを貯めるためのカードを出しながら、相手を攻撃するというもので、終盤に差し掛かると強力なカードを出せるようになるのであるが、対戦相手の男の子はそのエネルギーを出すためのカードを呼びだすためのカードを上手く使っていた。しかしながら、兄の今使っている源二のデッキには、そういったカードは入っていなかった。リクルートカードと呼ばれているそれらのカードは、大体の場合に置いてレアリティの高いカードなのである。当然であるが、初めての試合に兄は負けた。しかし、相手のアドバンテージを効率よく削りつつ隙を見てはダメージを与えていた、相手にとっても気の抜けない良い試合であった。

「お兄さんすごいですよ、初めてでコモンカードしかないデッキでここまで戦えるなんて! 」

 対戦相手であった源二のデッキの元の持ち主は偉く興奮した様子で偉く兄をべた褒めした。源二はそれを聞いてちょっと不機嫌になる。初めて三か月、カードバトルは楽しいのであるが、よほどのことがない限りは源二がこの子に勝てた試しは無かったのだ。

「もう一度やろう」

 兄は捨て札をまとめながらデッキのカードの内容をチェックする。よくカードを切ってシャッフルをし、リベンジマッチが開始される。兄の手札を見た時、源二はギョッとした。このデッキで考えられる最高の手札の組み合わせがそこにはあった。後攻の相手の手番で相手はやはり上手くカードを出せていたのであるが、兄はそこからまるで相手の手札を読んでいるかのような手を出していく。リクルートカードがあれば上手く無効化し、相手に無駄な手ばかりを打たせて徐々にダメージを与えていく。相手の子も最初は調子よく話していたのだが、最後の方は黙りこくって長考が目立っていた。彼の自慢のカードが始めたばかりの初心者に封殺されきってしまっていた。

 なんと二戦目は僅差で兄が勝ったのだ。続けて、三戦目からは圧倒的な差をつけて勝利を収めてしまった。レアリティの低い、しかも対戦相手の捨てたカードだけで勝つ。けれども、源二はタネが分かっていた。単純な話、兄は記憶力が相当いいのだ。そして、裏返せば見分けのつかないカードであったとしても、それぞれがどこにあるのかを寸分も違わずに完璧に把握することができるのである。勝てなくなった相手の子はイカサマをしているとカット交換を申し出たけれども、それでも兄には勝てず、終いには泣きだし始めてしまった。

 翌日に学校で源二がその子に挨拶しようとするとふいとそっぽを向かれるようになってしまったのである。その後にきちんと事情と兄の性格を話したのであるが、やはり現実離れしたことのように思われてしまったのか余計にその子と源二の関係はこじれてしまったのであった。そして、そんな目に遭っている弟に何の気も留めず、いつもと変わらない調子で本を読んでいる兄が居たのである。


 そんなことが兄と最後に会うまでの十四年間もの間頻繁に起こり続けた。そして源二が高校に入るころに漸くまともな関係を兄に邪魔されることなく築けるようになったにも拘らず、いまさら彼が帰郷してくるという連絡を受けたのだ。いつしか、友人関係をこれ以上兄に壊されて溜まるかという想いを画用紙にガリガリとぶつけているとそこにはデッサンの崩れた兄の顔が出来上がっていた。

 そこに花田先生がやってきて笑顔で

「おお、上手くかけてるじゃないか。その調子だ」

というものだから源二は、ますますはらわたが煮えくりかえってしまったのであった。