日記 209

7月29日

 雑記回

 日記と謳っている以上、日々起きたことを書いていくべきだが最近起こっていることが余りに内々にしておくべきことなので、とりあえず考え事の整理をしておく。

 どうするべきか考える。自分にはどうにもホワッとした考えをもったまま、それを誤魔化すためか大げさな表現でそれを飾ろうとするきらいがある。計画を考えるというのは、これとは真逆の話である。計画というのは何らかの契機にすぐ行動に移れるように備えておくことを言っているのだと思う。すなわち計画とは予算であり、行動であり、時間なのだ。実行の伴わない計画など無駄でしかない。それなら筋トレでもしてた方がましである。

 行動に意図を持たせる。それが自覚的かそうでないかはいったん保留にする。これは大事だ。明確に表現されるかどうかは、それを観察している主体の視点に準じているにせよ、この理屈抜きで人を考えることは出来ない。考えるとは分析すると言うこと。分析とは、分かるまでバラし、手に取って観察するということだ。単純化はドグマを生みかねないが、熟考できる今のようにPCの前で言葉を考えている間は時間からも自由になれると思う。実際のところ、明日も出勤しなければならず、それに備えてもう少しで眠らなければならないわけだが、こういう時間も有るべきなのだ。

 なぜが大事な場面とどうやってが大事な場面がある。誰というのは、過去から連続している客体であり、何と何処は場面そのものであるこれも過去を含む。いやこの五つともは、すべて含むのか。
 では、それらすべてが過去のみによって構成されているのか。すべてを過去によって説明しうるのか、それは違う。違うのか。鳶が鷹を生むこともあれば、逆もまたしかりである。過去から地続きであるにも関わらず、突然、地殻変動がごとく流れが変わることもあるだろう。そんな認識をもつのは、個人にはすべてを認識し正常に判断できる能力はないからなのか、それとも本当の不条理が存在するからなのかは分からない。

 不条理とは何か、条理ではないことである。過去と地続きで生きていくしかない人間は、条理というものに縛られているのである。不条理こそは救いである。しかしながら、不確定な変数(場面における情報の不足)が多ければ多いほど人は不安を感じてしまうものだ。よって、条理の中で生きようとする。条理は閉塞を生む。いい時期だと期待を、悪い時期だと緩やかな絶望を。条理というのは、確信と言い換えてもいいかもしれない。ベイジアンで言うところの信念か。しかしながら、条理を言語化するのは、言い換えれば因果を仮説を立てて説明し納得するのは危険である。十分な検証を経なければ大きな誤りを犯す可能性がある。
 不十分な検証で臨んだ勇み足が大きな失敗を犯し、不条理だなどと嘆くのは間違いである。それもまた因果のうちにあることなのだ。不条理は、理の外からここに来ることである。
 それは救いである。しかし、それもまた終末思想的であり、正確ではない。いい状態でも悪い状態でも逆転するかどうかなど分からないのだ。つまり不条理は誰にでも起こり、誰もを幸福に不幸にする。不条理が判断基準というものを奪い去るようなことが起きれば、人間というのは簡単に破滅するのかもしれない。いいことも悪いことも、自我が不条理に支配されてしまえば、過去を失ったことと同じなのだ。そこだ。
 不条理に支配されることとは、反啓蒙的を意味する。不条理を愛するとは、啓蒙的を意味する……?
 どちらにせよ、分からないことは多い。理不尽は不条理ではない。理不尽は条理の中にある。不条理とは何か。この命題は難しすぎる。他我は、不条理であるか。理不尽である。自我は、不条理であるか。不条理であることも出来る。唯一、自分にコントロールできる変数は自我のみである。これは真か。自分のコントロール、つまり想像できる範囲を超えてしまう場所には自我はつれてはいけない。よって、これは偽である。
 ではこの世に不条理なことなど有るのだろうか。我々は条理の中で生きていくしかないのだろうか。その諦めは、より人を進歩史観的な考えに駆り立てるだろう。よくいえば主体や責任というものを肯定する活力のある世の中。悪く言えば見込みが分かった途端にすべてから石を投げ続けられる修羅道。さて、どちらがいいのか。
 どちらにせよ、この考えで言いたかったことは、六畳一間の一室に突然美少女が現れて、何でも思い通りになることは、じつはこれを思いついた自我が過去と地続きである限り、条理でしかないと言うことだ。
 もしあるとすれば、それはこの世とは別の理を持った神だけなのかもしれない。
 もはや宗教めいてるな。今回。

今日はこの辺で