平日の昼間に考えること

今日は日記ではない。学生の頃、息巻いて買ったのに数えるほどしか開いていない類語辞典を広げながら、何となく普段考えていることや、今思うことを言語化する作業をしたいなと思ってキーボードを打っている。
 言葉というものは扱いづらいもので、普段何となく感じた違和感を理屈づけて、言葉にすることでふと手に取って分かるようになる一方で、定義づけ、悪く言えばレッテル貼りになってしまう危険性もはらんでいる。大部分の要素を言い当てることは出来ても、隠れていることが些末であるとは決して言えないのである。
 ありきたりな言葉をできるだけ緻密な理解を持って、意味を持たせればそこそこ通じるようになるのが分かったのが大学行ってからで、それまでは誰かが言った言葉をたいした理解もせずにそのままなぞっているだけだったようにも思う。いや、ほとんどの時期、そのことしか話してなかったが。
 目の前のことに興味が薄い。結局はそこに尽きるのだと思う。物事を深く理解したいと思っていても、速さが足りず、判断が求められる局面で話すことが出来ない。理解力が余り高くない、直感で判断することは出来ても、怠けて言語化しないと後から振り返った時蓄積されていない。あるいは定量的な基準を設けていないためなのかもしれない。
 ふと、先の段落で至った結論に矛盾があるように気づく。
 興味が薄いが故に理解力が足らない。言語化し、基準を設けて判断できるようにする。この二つがどうにもつながらない。ようするに深く考えたくないから、ある程度のところでとどめておこう。という結論でしかない。これでは、興味が薄いという根本に根ざした問題に対しての処方箋とは呼べないかもしれない。
 決まった文法で、同じような言葉を話す、同じような文化的背景を持った人的集団の居心地良さと愚昧さと気持ち悪さ、そこを超えた深みのある理解を言語化していく必要がある。集団から個、個と集団の繋がりを色んな視点から書けるようにならなければならない。やりたいことをするにはそういうことが出来るようにならないといけないんだろう。自分が好きなものは大体それが出来ているからだ。表現する媒体は別としても。
 先日、ようやくそれが少し出来た。といっても、他人の違和感を言語化しより見えるようにしてやったというだけのことだ。問題が解決する糸口になるとは思えないから基本黙っているのだが、同僚の愚痴に付き合うくらいには丸くなったと言うことなのだろう。
 10年もかかってこれでは、やはり凡人過ぎる。何もかもなげうって、これだ。バカなの?