たまには思想の話でも

7月11日(木)

 最近ものすごく仕事(とMTGA)で忙しく、モノを書いていなかったが、書かないと何のために生き延びているか偶に分からなくなるので、最近ボーッとしながら考えていたことでも書こうと思う。
 
・曖昧、善きこと、修辞と語り
 最近読んだ本で、近頃は語りの時代になったと書かれていた。
(140字の戦争というSNSの功罪を書いた本。解説が中東に勝手に行って叩かれてるオッサンというのがなんとも香ばしい)
 それって何かって言うと、古代ギリシャの末期の頃に流行った修辞みたいなものが、巷にはフェイクニュースとして溢れている現状の話。ツイッターを見たら連日、何かに怒っている人しかみないので非常に疲れるが、あれは心地のいい思想に共鳴した人がそれぞれ群れて、外に対して発信、あるいは排斥している。そこの裏にある意図とかは、私はなんか読めないんだけど、まあでもああいうのみると本当のところは何かというのが俄然危うくなってくる。
 テレビもラジオも新聞も信じられないからネット、という感性もちょっと気が狂ってるなと思わなくもないが、そう思うのも仕方ないなと思うのもあるいは誰かの語りによるものだったりするかもしれない。
 ここで言う語りというのは、印象操作とか喧伝である。各勢力、自分に都合のいいようなことばかり言って、興味のない人間まで感情的に巻き込んでやろうと考えるわけである。メガテンかな?
 そういう世の中にあって、正気で居られるにはどうすればいいのかと思うわけである。どいつもこいつも信用ならないし、そもそも何かに常に怒っている人間は怖いし、面倒くさい。定性的な語りと数字を一応用いて語ってはいるものの、その統計だって怪しい定量的な語りだったりするわけで。これがまかり通ってしまうのだから、人間なんて大体馬鹿なんだろうなと思う。
 だから無辜の民、言ってしまえば何の興味も持たずにだらだら過ごしてる層が一番、まともに思えてしまう。実際は、無辜なんていいものではなくて、潜在的にはどこかの思想に感化されていて、しかも無自覚に立証とか確証を持たずに、基礎的な部分を考えずに、漠然とした正しさを持っている。でも考えてみて欲しい、3年前、5年前、10年前、自分はどんな考えを持っていたか。そこにはどんな思想の潮流があったか。少なくとも僕は分からない。
 顔も見えない誰かの語りに感化され何となくでくみ上げた漠然とした公平さこそが、最も悪辣で卑怯だと思うわけである。自分は正しいから正しいというようなトートロジーを平気で言っている人間すらいて、世の中って本当に怖いと思う。まあ、これは自分もだけどね。
 語りって、ナラティブっていうらしいですよ。ガンダムじゃん。最新作見てねぇけど。

・啓蒙と脱啓蒙
 脱啓蒙とか言う考え方があるらしい。この時点で怪しい。原初に還れ的な思想なのか?
 自然科学的な検証は、西洋主義的であり、権威主義に拍車をかけるものであるというのがざっくりした流れらしい。うーん、クスリでもやってなかったらこんなの普通信じねぇよなぁ。

千年王国
 思想家というか活動家には、大体、理想郷が存在するらしい。やべー。こえー。

 めんどくさくなってきたので今日はこの辺で。