日記 153

4月16日(火)

 あることないこと書いてやろう。
 拡張現実という言葉がある。ありもしないモノを現実にホログラムやらを使って上書きするという技術である。ポケモンGOとかが近いか。実際の映像にCGを映してそこにあるように見せかけるモノであるので、ちょっと定義から外れるか。とにかく自分のやりたいことというのは、ある種、拡張現実めいたことなのである。脚色し、加工し、ありもしないモノと存在するモノを混ぜ合わせて、何の責任感も抱かずにあることないことかいてやりたいのである。
 拡張された現実なのか、そもそも生の現実なのかを見極める必要がある。拡張された現実であるには、少なくとも間主観的な共通の認知を得ていなければならない。客観とまでは行かなくても良い。生の現実というものですら、海外のニュースなんかをテレビの前で煎餅かじりながらノートルダムが燃えている映像に現実感なんか感じないだろう。ひょっとしたら、マクロン大統領なる人物は存在しないかもしれないし、俳優かもしれない。要するに真実か否かを厳密に判断することは出来ない。実のところ、生の現実ですらよくわからないまま都合良く運用しているだけのブラックボックスな世界なのである。
 拡張現実という言葉がある。けれども、今、生の現実と拡張現実の境界はなくなった。技術を用いたという認識のフィルターを外してしまえば、そこに何の違いもないのである。

 さて、現実原理主義社という団体群がある。これらは、生の現実のみこそを信じるという集団である。技術による拡張を単に否定する結社もあれば、極端なものであれば、人類の打ち立てたあらゆる形而上の概念、倫理、法律等をすべて拒絶する集団もある。私からいわせれば、彼らは人であることをやめようとしている無知蒙昧である。現実と想像と検証によってのみ、人類は知を手に入れてきたのだから。
 
 眠いのでもうねる。