日記 136

2月19日(火)

 寝る前の脳内ラジオ垂れ流し回

 さてここで考えたいのは自由ということについてなのだけれど、ここでいう自由というのは、つまり日記をどのように書くかということについてなんだけれど、日記という言葉に縛られてあったことしか書かないのは非常に良くない。なかったことを書いたっていいじゃないか。思ったことを書かなくていいし、考えなかったことを敢えて書いたっていいんだ。
 要するに、足りない脳みそで考えたって何にもならないってこと。右手と左手で反射的に書いたことだって別に構わない。日記の唯一の制約があるとすれば、その日に書いたという事実が担保されなければならないということだけだ。誰が決めたって? 俺が決めた。書いている瞬間だけは世界で一番偉く、賢明で、思慮深く、残忍で狡猾で、分け隔てなく優しい、そういう俺だ。だから、唯一無二の真理じゃないとか価値基準は人それぞれとかどうだってかまわないんだ。世界はその基準で補正されるし、また、そのように動き始める。人格というフィルターはそういう風にできている。何十年も生きていればどういった場合にどういう言った判断がされるか、人間の心理状態と自己のそれがどういった関係にあるかは大体判別がつくだろう。そういう話さ。
 さて、実用に足らない話をつらつらと話そう。実用に足らなければ、それは情報としては落第である。現代人にとって時間あたりに得る情報量が将来の利得を決めるといってもいい。個人にとっては、寡占市場を常に相手取っていると仮定しても問題はないはず。つまり、だましだまされのゲーム状態。悲しいかな、だましているという感覚すら相互に存在しているわけでもないんだ。だって、事実を誤認している場合がほとんどだから。情報を正しく素早く正確に判断することが何より重要なのさ。うん? それは関係ない? こりゃ失敬、よくしゃべる手でゴメンね。しゃべってやるよ。
 ご主人は、もう夢の中さ。目と手だけで頭を使わずに書くとどうなるかという実験さ。ここまでこんな文章を読んでくれた辛抱強い君たちのために解説するとそうなる。このブロマガの説明文は読んでくれたかな。そう、ここはぼろ雑巾入れ。思考の澱の吹き溜まり。形になれなかった感情を書くための場所なのさ。だから、ここで書かれたものは形を成せない。かわいそうにご主人、そんなことにも気づかないとは。まあ、どうせ、起きたら忘れるでしょう、だってご主人読み返さないもの。
 現状を話したところでさ、まあ、もう話すことも特にないのかな。珈琲ってあるでしょ。珈琲美味しいよね。カフェオレが好き? いろいろな飲み方があるけど、結局喫茶店ではアメリカンかブレンドを頼むね。スタバ? そんなのがあるのかい。あんまり行ったことないな。ベーグルが美味しいよね。二度と食べたくなくなるくらい歯が痛かった思い出があるよ。うんうん、ここ、笑うところだから、さあ、笑って!
 あらら、ご主人感あ禅に寝落ちしちゃった。そろそろ寝るね、おやすみ!(@^^)/~~~