日記 215

8月18日(火)

 今日は気が乗ったので久々に小説の続きを書いた。400字にも及んでないがそれなりに楽しい。虚構というのはそこそこ頭を使うし、普通にどう書けばいいか分からなくなるが、適当にやってりゃ、いい頭の体操になる。本当なのかどうかは知らない。
 この間浮かんだフレーズの意味を考えたが、アレは多分、学生時代にやったフリーゲームの影響だと思う。ああいう題材の作品が多かったし、多分、少なから影響を受けていたのだというのもうなずける。そのフレーズとは、
「物語は、誰のためにあるか」という命題である。
 大学時代、本読みの友達が多かったのだが、私は字を読むと文字が滑り出してよく読めないので、漫画ばかり読んでいた。(字主体の本も多く買ったのだが大体は本棚でずっと眠っていた。特に専門書! これは学生を本嫌いに陥らせる主要因だと思う。教科書はなぜか読めた。なぜだ……)
 漫画は面白い。私のような長文を読み続けられない人間にとって、感情の機微を研究するためのいい道具であった。よく読んでいくうちに、読み方のようなものが分かってきて(当然これはフリである。そんなもの今でも分かった風のままだ)、なるほど、登場人物の機微というのはこういうものなのだな、と分かるようになったと思う。
 話を元に戻そう。人間観察が趣味です。と、入学当初はイキっていた私だったが、その実、周囲から観てイタいだけの人間だったのだと思う。まあ、実際、君には人間性が足りないなどという馬鹿げた理由でフラれたばかりだったので、多少、浮かれる(浮くの間違いか)のもまた青春の熱だったのだろう。それを自分では、真面目でなにか高尚なことをしているかのように思っていたし、実際、今でもそう思っている節もある。
 まあ、人間観察と言ってもできるだけ地の文を日常生活につける練習というか、動作を書くとはどうすればいいかとか、そういうもので、実際のところ作者という演出家もいない現実世界の裏で何をやっているか分からない生の人間というものをいくらよく観ても、せいぜい昔やっていたホットペッパーのCMみたくアフレコ芸が出来るようになった程度である。誰にも披露したことはないし、これからもする予定もないが、一人で笑いをこらえているときは、大体そういう想像をしている時なのだ。不気味に映るかもしれないが、一人で空想に浸るくらいの自由はこの先、生きていく人生を豊かにしてくれるものだと思う。
 物語は誰のためにあるかという命題がいまでもよくふと浮かぶのは、誰のために物語があって欲しかったかという怒りによるものなのかもしれない。
 感情が希薄だという言葉がとてつもなく嫌いだ。わたしがこう行動しているのだから、あなたはこう感じられるべきだという支配欲を隠そうともしない言葉を、道理にかこつけて放言するのが善人の嫌いな点だ。なら最初から、顔にこうしてくださいとプログラムでも書いてればいい。それが許される世界の中でずっと生きていればいいし、どうか自分を巻き込まないでくれ。
 しかし、だ。道理というものが分かっていなければ、感情というのもよく分からないと思う。飴ちゃんをあげると言えば、ありがとう。いらなくてもありがとうと言え。これが道理、だそうだ。だから、自分は譲歩するべきなのだ。こうしてくださいというプログラムをできる限り効率よく処理するように段取りを組めば、人間は喜ぶし、そこをとことん潰せば、死んだような顔になっていく。そういうものらしい。(あくまでキャラクターの話だし、こんな能力があれば、私はもっといい生活をしているだろう。)
 
 眠いな。今日はこの辺で。